« 就職活動での出会い | Main | ダビスタ »
2004年3月30日
命日
今日(3/29)は俺の命日だ。
何、わけの分からない事を言っているのか、とお思いの方もいらっしゃるだろうから、簡単に説明しておこう。
1999年3月29日の事だった。当時の俺は、心配していた留年も何とか回避し、大学1年から2年に上がるのが決定した所だった。俺は大学入学当初からヨット部に在籍し、その時は幹部が抜けた人数の少ないヨット部で、春休み最後の合宿をしていた。
その日の朝のニュースで沖田浩之さん自殺のニュースがやっていたのを今でもはっきりと覚えている。午前中は風が強く練習ができなかった。朝からずっと布団の中で眠っていた俺は、午後になり、風が弱まり練習可能になったのを知って急いで用意をした。当時、2年になるという事で、新しい技術の練習に取り組んでいたのが面白くて仕方無かったので、早く練習がしたかった。早々に用意を済ませ、一人走って浜に向かった。朝食はとっていなかった。少し腹が減っていたので、浜までの途中の食料品店でパンを一つ買い、浜で食べた。
しばらくすると全員が浜に集合し、いつも通りの練習が始まった。
練習も前半が過ぎた頃、俺は同じ代のキャプテン(うちのヨット部では各代に既に主将となる予定の人が決まっていたのだ)とヨットに乗り、練習を始めた。
言い忘れたが、ヨットと言ってもアメリカズカップ等で使われるクルーザーと呼ばれるような大きなものを扱ってはいない、私のヨット部ではK16という2人乗りのディンギーで日本で生まれた日本だけの非常にレアなヨットを扱っていた。レアとは言え470級などのメジャーなものと大きく作りが異なるわけではなく、同じレースにレーティング(ハンデ)なしで出場することも普通だった。
葉山と横須賀の間あたりの久留和海岸という所が、うちのヨット部の練習場所だった。練習はいつも大体、2km位沖に出て練習をしていた。太平洋側になるので、南風はある程度、風向が安定しているのに対し、北風は陸の影響を受け風向がかわりやすい。その日はちょうど北風だった。
同じ代同士でヨットに乗り始めてから間もなかった俺達は、気まぐれな北風の風向に少々てこずっていた。風は強くなく、練習にはもってこいという感じだったが、やはり技術的に未熟な事もあり徐々に幹部の船とは距離が離されていた。
クルーという船体のバランスをとる事が主な役割だった俺は、北風に翻弄される船を安定させるために、体勢を変え何とか幹部の船に追いつこうと努力していた。
そんな時だった。突然、風向が変わり、セイルの裏に風が入った。何が起きたのか分からなかったが、気がつけばヨットは転覆し、俺は倒れたヨットのセイルとデッキの間に浮いていた。
相方の「完沈(ヨットのマストが完全に海の底へ向く状態)するぞ!」の声を聞いた直後にヨットは完沈の状態になった。俺は海中に潜り、とりあえず息ができる状態に体を持っていこうとした。完全に転覆したヨットのガンネル(デッキの端)に手をかけ、上を見上げると海面に相方が心配そうにこっちを見ているのが見えた。が、すぐに異変に気づいた。どんなに力を入れて、懸垂の状態から体を持ち上げようとしても、体がそれ以上、上がらなかった。もちろん、俺の頭は海上に出ていない。転覆したヨットの底に乗り俺を見守る相方の手を握り二人の力で持ち上げようとしても上がらなかった。
クルーはハーネスという、ぶら下がるためのフックのついたものを身につける。沈したときは、ハーネスにヨットと繫がったリングをつけたままの状態だったが、その状態でも俺の顔がでないことはないし、第一、沈した時に俺は顔が出やすい側に移ったはずだ。頭の中でいろいろ考えたが、どうしても分からなかった。もう既に、息が苦しくて仕方無かったので、最後の力をふりしぼって、何とか口を水面まで持っていき、息を吐いたが次の瞬間、波が俺の口の上を通り、とうとう俺が息をする事はできなくなった。
最後の力をふりしぼったのに息ができなかった絶望感から、俺は大量の海水をのんでしまった。普段ものを食べた時に通る食堂ではない別の所を海水が流れる妙な感覚と共に、背筋か冷たくなり俺は死を覚悟した。
上から俺を見ていた相方が慌てふためき助けを呼んでくれている声がかすかに聞こえた。俺の危険を感じているくれている事に少し安心した。一瞬、冷静になり、俺の体を海中に押しとどめているハーネスのリングを外さない事には、俺が助かる事が無いと思った。腰のリングに手をかけたが外れそうになかった。身体ごとぐるりと回転してみようと海中で腰を曲げた瞬間に記憶が無くなった。。。
気がついたのは岸へ向かう途中のテンダー(モーターボート)の上だった。ゲロを吐きながら意識を取り戻した時に、あ、助かったんだ、と思った。酸素不足が原因だろう、眠くて、仕方なかった、すぐに意識を無くしてしまった。断片的な記憶しか無い。浜について、もうろうとした意識の中、救急車呼ばないでも大丈夫です、と言った事、救急車の中で、救急隊員の人と会話したこと、病院の救急センターのベッドで看護婦さんに、トイレ行きたいですと言った事、医者のもつレントゲンの結果がみえて肺の中が真っ白に写っていた事など、瞬間的な記憶しか覚えていない、それ以外の時間おそらく俺の意識は無かった。
その時に海水を体内から抜くために俺は麻酔を打たれ、その後、丸3日意識が全く無い状態で過ごした。
俺自身は、全くどういう事が起きているのか知らずに、気がついた時は3日が過ぎ、親や3/29の段階ではその場にいなかったはずの人が俺のベッドの周りにいたので、目覚めたときは裏島太郎の様な感覚だった。俺は、その段階で、なにも後遺症は無かったし、覚醒剤により目覚めさせられた事による、凄く目覚めの良い朝の様な気持ちイイ感覚だった。
しかし、後で話を聞くと、どうやら医者にはかなり厳しい事を言われていたらしい。後遺症が残る可能性がある、50才ならもうすでに命はないとまで言われていたようだ。このことで、ヨット部の仲間や家族には大変な心配をかけてしまった。そのようなことを医師から言われた彼らにとってこの3日間は非常に辛い思いをしたことだろう。
ヨット部の仲間は、俺が目覚めたときに、この三日間、泣きながら不安な気持ちで折った千羽鶴を渡してくれた。
幸い、5年経った今でも特に後遺症もなく普通に生活できている。間違いなく、この時に俺は一度死んだ、ヨット部の先輩、同期、病院の方々、救急車を呼んでくれた人、家族、その他多くの俺に関わってくれた人、さまざまな人の協力が一つでも無ければ、俺は今、ここにいないだろう。
こういう事から、3/29は俺の命日と言う事にしている。
この事故で俺は、非常に多くの方々に迷惑をかけた。俺が今ここにいるのは、まさしくその方々のおかげだ。また、この事故をきっかけに俺は、多くの人の愛を受けて生きている事をはっきりと分かる事ができた。本当に感謝しています。改めてお礼を言いたいと思う。
Posted by shogo at 2004年3月30日 03:33
Trackback Pings
TrackBack URL for this entry:
http://shogokatsurada.dyndns.org/~shogo/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/63
Listed below are links to weblogs that reference 命日:
» イラク邦人拉致事件 from Dura::Blog
昨日、町田でラーメンをすすっている時に、イラクで拉致されていた日本人3人が開放されたと言うニュースを聞いた。 無事開放されて良かった。というのが、日本人ほとんどの人の反応だろう。 今日、夜ニュースでたまたま、開放された日本人がイラクに残ると言っている事で... [Read More]
Tracked on 2004年4月17日 11:37
Comments
ほんとによかったね、そろそろ海いこう。
Posted by: 吉田 健太郎 at 2004年6月 2日 13:10